なぜ自閉症になるのか
乳幼児期における言語獲得障害


自閉症の謎に迫る!
自閉症の原因は、生得的な言語認知障害ではなく、後天的な言語獲得障害だ!
ことばはどのように獲得されるのか?





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商品説明(まえがきより抜粋)


 川崎医科大学の小児科教授であった片岡直樹は、一九八〇年代から、「生まれた直後からテレビ・ビデオづけにしていた子どもたちからコミュニケーション能力が欠如していく」という現象に気がついていた。
しかし、学会などでその危険性を訴えても、どの大学教授も「自閉症は脳の器質的病変によるもので、多少テレビの影響はあるかもしれないがそれは本質的なものではない」と相手にしなかった。
二〇〇〇年の春、彼は日本小児科学会の子供の生活改善委員会に自分で立候補しその委員になった。委員になれば無条件で論文が発表できるからである。
「新しいタイプの言葉遅れの子供たち−−−−長時間のテレビ・ビデオ視聴の影響」という学術論文が日本の医学会で発表されたのは、二〇〇二年のことであり、片岡教授が行動を開始してからすでに10年以上がたっていた。
同じ2002年10月の日本小児科学会雑誌に、橋本俊顕が「自閉症の脳科学」という総説を発表している。脳病理、脳画像からみた自閉症の器質的異常について述べた論文である。何か学会が片岡教授の発表を認めないと言わんばかりの対応である。
しかし、この論文も、自閉症の成因として脳の器質的異常を肯定的に述べたものでは決してない。脳の解剖学的異常が指摘されている部位が報告者によりまったく一定せず、また、これらの異常部位がどのようにして関連して症状を発現するのか、そして遺伝子・神経化学所見・心理学的所見との関係はどうか、各脳部位の成熟速度との関係はどうかなどの問題点は一切解明されておらず、しかも、これらの脳異常部位が二次的な変化の可能性もあるとしているのである。
このように、自閉症の成因として、脳の器質的異常が解明されていないにもかかわらず、自閉症を扱う日本小児科神経学会は、自閉症の成因を生得的な脳の器質的異常と断定しているのである。
著者は、脳の器質的異常は自閉症の二次的反応による脳変化ではないかと考えており、少なくとも日本小児科神経学会が、明らかな根拠も提示できないにもかかわらず、自閉症と生得的な脳の器質的異常と決めつけていることに対して、疑義を呈していと思う。

■こころのソフトはことばである
こころとか、ことばとかいう概念は、科学の俎上で論議されることはほとんどない。
文学や哲学ではなく、科学の俎上で、こころとことばを考えることができないだろうか。
理論生物学者の創始者であるマトゥラーナは、こころのソフトはことばであるという概念を提起した。そして、ことばとは、指示機能ではなく、合意的コミュニケーション相互作用であるということを生物学的に明らかにしたのである。
しかし、他者とこころが通じ合ったと感じる、こころが通じ合ったことに喜びを感じる、
そのような他者とこころが通じ合ったと感じることは、そんなに度々あるものではない。
マトゥラーナのいう合意的コミュニケーション相互作用とはどういう意味だろうか。

■心の理論
1985年、イギリスの心理学者バロン・コーエンは、脳には他者のこころを理解する機能モジュールがあって、自閉症という病気はそのモジュールの欠損ではないかという「心の理論」仮説を発表した。自閉症とは、他者とのコミュニケーションがうまくとれず、社会的孤立、言語異常・遅滞などを認める障害である。
バロン・コーエン学派が「心の理論」仮説を提起して以来、自閉症児の中核的問題が、煎じ詰めれば、情動的障害にあるのかまた認知的欠損にあるのかという二つの見解に分かれ、真向からぶつかっているのである。
これはひとえに、こころとかことばの概念がはっきり認識されていない状態で論争が行われているからである。
ことばとは、そもそもは象徴的コミュニケーションである。
しかし、最初から象徴的コミュニケーションが可能なわけではない。象徴的コミュニケーションが成立するには、情動的コミュニケーションが必要なのだが、このようなことばの概念、またことばがどうやって獲得されてくるのかといった問題については、私たちは十分理解していないのである。
ことばには、認知的な要素も、情動的な要素もあるのだが、私たちはこのことについてよく認識しているわけではない。というわけで、「心の理論」提起以降、繰り広げられている論争は当然といえば当然なのである。
この基本的なこころとことばの本質を理解することが、自閉症の成因について知る喫緊の課題であると考える。
マトゥラーナの、ことばとは合意的コミュニケーション相互作用であるという概念を理解する試みをまず行い、それと併せて、このことと密接に関連している自閉症の謎の解明に取り組みたいと思う。
話が抽象的に流れないようにするため、1976年に河出書房新社から出版されたクララ・パーク著「自閉症児エリーの記録」を具体的題材として取り上げ、この試みを行いたいと思う。

■クララ・バークとエリー
米国の典型的な中流家庭の主婦で、物理学者の妻であるクララ・パークは、三人の子どもの子育てをつつがなく順調に終えることができた。子どもたちは、それぞれになんの問題もなく、健康で、優秀であった。パーク夫人は、子育てを卒業し、もともと教えることが好きだったので、教職を得ることをめざしていた。ちょうどそのようなとき、四人目の子供を授かるという思いもしていなかったことになってしまったのである。
そして、お産は無事終えたが、その四人目の女の子エリーが自閉症であることが後にわかるのである。
パーク夫人は、エリーが自閉症となった原因がもしや自分の子育てにあったのではないかと危惧していたこともあり、後世の医者が、エリーが自閉症となった原因を推定できることも考慮し、自らの子育てを含め、すべてをあからさまに記した物語「自閉症児エリーの記録」を1976年に著すのである。
この著作は、自分自身の問題点、過ちも明らかにしてもらいたいという思いもあり、事実に則って客観的に子細に記されている。
そして、クララは、次のように述べているのである。

証拠物件となりそうなものはことごとく、私の非となりそうなものは特に、挙げなければならない。いつの日にか、誰かが、関連のあるものをついにさぐりだしてくれることを願って――。
麻疹のこと、腹痛のこと、頭を打った事故、私が女としての役割を喜んで受け入れようとはしないインテリの母親で、もう子供を欲してはいなかった事実とともに。

この著作は、世界中で翻訳され、多くの人々に読まれるようになるのである。

私は、マトゥラーナの「認知の生物学」、「オートポイエーシス」の研究をしており、こころ、ことば、時間という概念について記した「こころ、ことば、時間」という著作を執筆していた。その執筆を通して、自閉症の成因は、生得的な言語認知障害ではなく、後天的な言語獲得障害であることが明らかになってきた。そして、自閉症の謎に迫りその解明を試みるには、パーク夫人の著作が格好の内容であることに確信をもつにいたったのである。
そこで、パーク夫人とエリーの物語を読み解く論考を試みてみたいと思う。

■自閉症の謎
閉症とはどんな病気だろうか。
生まれたときから、棒切れを抱いたような子だったとか、泣かない子だったとか、そのような親の嘆きにどれだけの信憑性があるのだろうか。
そして、なぜかほとんど乳幼児にその原因を帰するような傾向にあるのはなぜだろうか

乳児は、この世に生を受け、大人とどのようにコミュニケートすればよいのだろうか。
コミュニケートの仕方のすべてを乳児に負わせるべきだろうか。
母親と乳幼児との関係に問題はないのだろうか。
母親と乳幼児との関係に問題があることは想定されず、乳幼児の側のみに問題があるとするのはなぜだろうか。少なくとも乳幼児のみならず、養育者にも責を求めるのは当然と思われるがそのようには考えられていない。
子どもの側に自閉症を生み出す原因が想定され、確たる証拠を見出せないにもかかわらず、脳の機能異常としてしまう無頓着な論理が横行するのはどうしてだろうか。
そもそも、わが国ではラターの言語認知障害仮説がある程度浸透している状況であるが、どのような発達過程を経てことばが獲得されてくるのかさえ明らかになっているわけではない。ことばは脳の成熟過程で自ずから獲得されてくるかのように推定され、言語認知障害の要因は生得的な脳の成熟過程の問題としてとらえられてしまうのはなぜだろうか。
言語認知障害ではなく、なぜ言語獲得障害という概念が生まれないのだろうか。
自閉症はなぜ起こるのか、その謎はカナーの報告以来明らかにされていない。
ことばは学習によって獲得されるのか、それとも生得的にもって生まれたものなのかさえ定かにされているわけではない。
読み書きのことばは、学習でよいと思われるが、話ことばはどうだろうか。
学習でよいと考えているものもいるが、一応はチョムスキーの生得説が信じられているようである。
しかしはたしてそうだろうか。この論争に勝者はいないと考えるのが妥当である。
わが国においては、野村庄吾の「共感・共鳴の関係」、「やりもらいの関係」によって生じてくる模倣説が、優れた観察に基づく言語獲得理論である。
乳幼児、子どもがことばをどうやって獲得していくのかという一番本質的なことさえ、世界的にコンセンサスは得られていないのである。
コミュニケーションには、象徴的コミュニケーションのみならず、情動的コミュニケーションが存在することさえ、知られているわけではない。
小林は、自閉症児と養育者のあいだのコミュニケーション問題を、関係障害臨床としてとらえ、両者の関係欲求をめぐる葛藤の存在を抜きに考えることはできないとしている。また、自閉症は、乳幼児と養育者の関係障害がその後拡大再生産されていく病態だと考えている。
しかし、小林も生後早期の両者のコミュニケーション、すなわち生後早期の両者の関係障害についてはまったく触れようとはしない(注)。
養育者と乳幼児の生後早期のコミュニケーションについては問題ないのだろうか。
高木隆郎は、二歳児の言語発達障害を数多く観察するようになって、ことばの発達障害が<自閉症状>に先行していることにかなりの確信をもつにいたったと述べている。そして、
二歳代にことばの萌芽がでて、それが量的に増加していくかどうかが自閉症になるかならないかの分かれ目であるように思うとも述べている。
もし高木のこの観察が正しいとするならば、ことば獲得のこの時期、あるいはそれ以前に、なにごとかが起こっている可能性が考えられる。
筆者は、自閉症を生得的な言語認知障害ととらえず、後天的な言語獲得障害とみなし、言語獲得の課程において、とくに母子の情動的コミュニケーションの問題に焦点を当てたいと思う。


目次

第一章 こころとはなにか

生まれたばかりの乳幼児に何が  / こころが理解できない / サリーとアンの実験 / 原意識と高次の意識 / こころのソフトは言語機能 / 脳と人格 / 言語機能はいろいろある脳機能のうちのひとつではない / こころを定義しよう――時間とはなにか /  原意識と高次の意識――現在の瞬間を認識する意識状態と言語機能 / 時間とはなにか / マトゥラーナの理論生物学から理解する / 音楽や映像・絵画はこころのソフトになりえるか / 高次の意識と音楽

第二章 ことばとはなにか

ヒトと動物の差異 / ことばと考える能力 / 言語機能は無限の拡がりをもつ / 言語の起源 / 二足直立歩行がヒトの言語獲得機能に及ぼした影響 / ことばとはなにか / ウィトゲンシュタインの沈黙

第三章 ことばはどのように獲得されるのか

聴音・構音技能の獲得――これは生得的なものと考えてよい / 相互模範ゲーム / 話しことばは、親子の共感・共鳴の世界、親子の同期によって生まれる / リズムと自己組織化 / 話しことばの獲得――親子の同期に基づく模倣とア・プリオリな範疇的・理論的汎用化機能 / 汎化機能 / 文脈と範疇的汎化 / 教育と汎化機能の関係 / 情動的コミュニケーション / 口承世界と識字世界 / 合意的コミュニケーション相互作用であることばの意味

●コラム 非線形科学からみた親子の同期によることば獲得メカニズム

第四章 ことばと前頭前野・言語領野・小脳

前頭前野がことばを生み出す / 具体的概念から象徴的概念すなわち言語システムへの変換における脳の働き / 前頭前野の特徴 / 言語機能に及ぼす小脳の役割

●コラム 橋本俊顕の総説「自閉症の脳科学」の検証―脳病理と画像(MRI、SPECT、PET)所見を考察する

第五章 理論生物学の誕生―生きることは知ること、知ることはプロセスとして生きること

マトゥラーナの理論生物学 / マトゥラーナの考えていたこと / オートボイエーシス―生きているとはどういうことか / オートボイエーシス・システムとしての人 / オートボイエーシス・システムとエントロピー増大の法則 / マトゥラーナの認知理論

第六章 クララとエリーの物語

エリーの家 / 指さしをしない / 親子関係 / 自閉症の親 / 母子に共感の欠如があり、「ことば以前のことば」獲得にいたらなかった / ことばを理解できない、こころがない / 言語機能とオートボイエーシス / エリーが真似をしないから、こちらが真似をしよう / 自閉症の警戒心 / 成長したエリー / 共感の欠如 / 想起と言語機能 / 共同と成長

第七章 シャーロット・ムーアとジョージ&サムの物語

予期しなかった難産 / 不安からくる不眠、そして親子で同期することの難しさ(T) / 不安と知覚異常、そして親子の非同期 / 本を読み聞かせるときはじめて同期する / 母親と共感・共鳴の関係を築けない―同期しない、できない / 母親の不在が原因で、クラッシュ / 不安からくる不眠(U) / サムの自閉症

第八章 自閉症の諸相――エリー、テッド、ロビン

エリーはどうなったか / 「見えない病」のテッド / 「無限振子」のロビン / 無量真見の自閉症後天的発症理論

第九章 自閉症スペクトル――キャンバーウェル研究の功績

キャンバーウェル研究――「障害の三つ組」とは言語獲得障害を意味する / 自閉症スペクトル

第一〇章 情動と知覚

不安と知覚 / 母親が旅行で不在あるいは引越しは、大きい不安を乳幼児に与える / 母子の情動的結びつきの欠如からくる不安――関係欲求ジレンマ

第一一章 ウタ・フリスの「空白の自己」理論

意識していることを意識している―自己意識 / ウタ・フリスの「空白の自己」理論は言語獲得障害を意味する

第一二章 こころは科学できるのか

デカルト哲学そして科学の誕生 / 近代医学の誕生 / 自閉症は精神医学が扱うべきものなのか

 


著者紹介

別府真琴(べっぷまこと)

神戸大学医学部卒業後、兵庫県立西宮病院外科部長として、消化器科外科特に肝臓胆道膵臓外科を専攻、1995年退官。その後、理論生物学・マトゥラーナの研究者として、西洋医学を基礎にしながらもその欠陥を補完する医療の研究に従事。マトゥラーナの「こころのソフトはことばである」、「ことばとは合意的方向付け相互作用」なる概念を西洋医学に応用するべく研究に着手。自律神経機能の改善における呼吸法の研究、慢性疾患特に自己免疫疾患の研究、自閉症の成因の研究などに成果を挙げる。

現在、別府内科クリニック院長。著書:「意識呼吸のすすめ」、「自分らしさのタイプB」(いずれも朝日ソノラマ)など。

 

 

 

 

 

 

 

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